名古屋展に行ってきたよ。
最初に画集見たのは、中学生頃だと思う。
今回の展示会は
同世代のカラバッジョに影響を受けた画家とカラバッジョを対比させて見せる。
カラバッジョは天才だとしみじみ感じた。
そんで、同世代のカラバッジョをお手本にした画家の作品観るの辛かった。
どんなに、模写しても能力に限界がある( ;∀;)
カラバッジョは、人間的には尊敬出来ない類の人間やと思う、
それはモーツァルトもや。
そーいう人間に卓越した才能を与えて
(普通に努力したやろうし、絵を描くのも好きやったやろね)
地味に、基本を大切にして一所で職業として努力してきた画家が
むごい位に才能がないのを、分かるって残酷や。
そして自分が死んでからも
「ただの絵」
人を感動させる事も無く
空間を埋めるだけの
才能ある画家の「輝き」を再認識させる為に存在する絵を残す。
これは製作者にとって地獄じゃないかな。
そーいう才能に出会う事自体「まれ」やから大半の画家は
職業画家として自己満足して死んでいけたと思う。
しかし、カラバッジョやミケランジェロと同年代の画家が残酷や。
ダヴィンチは、まだいい。
完成させる事が少なく、次から次に手を付けてやりかけのまま死んだ。
「メドゥーサ」や「法悦のマクダラのマリア」「ダヴィデ」
人だかりが出来てるので
「カラバッジョの絵があるんやな」と分かるけれど
努力で埋められないものがあるんや、と凡人のわたしは自分の事が情けなく思った。
中学生から美術部で漫画書き「リボン」に投稿し
高校生でお年玉で上京して集英社に持ち込みした。
「漫画家になりたい!書いたらすぐ編集者に見てもらうには東京の大学へ!」
と思い大学受験したが、
上京して漫画書いて、
その時は自己満足やけど、絶対的な才能が違うって失望する。
読むのが好きやから、なおさら自分の才能の無さが分かる。
自分が好きな先生の入選作やデビュー作を読むと、自分の感性の無さに幻滅。
幻滅するって事は、作品の価値が分かる能力があるって事で(;^ω^)
それはつらい。
わたしのような気分にカラバッジョを模倣した職業画家もとらわれていたと実感する。
しかも、カラバッジョに「真似すんじゃねーよ!」事件で裁判起こされて
それから光と影の技法使わずに古典に戻った( ;∀;)ってさー
カラバッジョ、まじ性格悪いわ。
関係ないようであるんやけど
「平等にしろ」って、今時みんな言うよ。
子供なんか「平等」って勉強でも運動でも無理やし
個性を生かした教育で平等に扱えって意味不明。
才能もあって
人としての道徳観も素晴らしく・・・現代は難しい時代になったよね。
Yちゃんのうわさは聞きたくないが入ってくる。
才能があっても常識をわきまえなアカンのや。
昔も現代も一芸に秀でてても苦労する。
常識なんて関係ないから才能があるってわけでもない。
常識無くて才能も無い「救いようのないバカ」は最悪。
しかし、常識無くて追い詰められて、才能を開花させるのはアルなぁ。
(これは、本人的には幸せじゃない。)
常識なんて関係ない、一芸が欲しい。
何の才能の無い凡人のつぶやき。